無駄かもしれない足掻き

github : https://github.com/zer0-u

吹き替え映画と翻訳

今日もゆっくり休めたし、本を読んで英語と数学を勉強したいい日だった。と思う。明日は午後から働く。

本の内容について話してもいいんだけど、なんというかもう少しかかりそうだから昨日少し考えた「翻訳された文章が苦手な理由」を掘り下げてみたい。
前置きとして脱線するが、私はたいてい5個か6個のことを同時に考えているような気がする。同時に、というか、意識の表層に出ているのは1個だけだが、バックグラウンドシステム的な感じで残りの案件を常に処理しているイメージ。まぁ、そのうち1つか2つくらいは「おなかすいた」とか「BL小説で萌えるシチュ」だったりといった至極どうでもいいことに使われているが、他は読んだ本の関連だったり課題だったり、割と重要度が高いものに使われている。だから、マルチタスクがよくないっていうのは私にとっては間違っている。
脱線した。ということで、今現在表層にて処理されているのが「翻訳」についてなので意識の入れ替えの手間を省くためにこれについて書く。

昨日も書いたけれど、私は翻訳された文章というものがうまく読めない。5年ほど前まではそうでもなかったはずが、今はからっきしだめだ。といっても全て受け付けないのではなく、英語・フランス語といった「自分がもとの言語を知っている」状況に限り受け付けない。中国語とかドイツ語なんかは読めないし書けないので日本語に訳してくれないとさっぱりだ。こういう状況になった原因として、映画の見方を変えたからかもしれないとふと思いついた。
5年ほどまえと言えば、高校に入るくらいで、まだフランス語なんか勉強していなかったけど、英語はそこそこ(同世代の中では)できている方だった、と思う。で、その頃からなけなしのお小遣いをためて映画を見に行ったり、親に頼んでDVD買ってもらったりと、映画に触れる時間が増えた。もちろんその頃からものすごい乱読家だったし、今以上に忙しかった。
何が決定的に変わったのかというと、その頃から洋画偏重になったし、それもすべて「字幕」で見るようになったことだ。それまではドラえもんだったりポケモンだったり、わりと邦画やアニメも見ていた。子供だし。それが字幕に置き換わるということは、今考えるとかなりの転換点だ。そのことによって、役者の口元と音声が合致するようになる。これまでの吹き替えだと、どうしても口元を無視せざるを得なかったのがむしろ重要なポイントになる。話し言葉をそのまま理解することができるようになった。
それとこの「翻訳」はものすごく強いつながりがあると思う。頭の中で文章を音読しながら読むから、なるべく話者はそのままの言語でしゃべっていてほしい。訳された文だと、どうも吹き替え映画を見ているようで違和感を覚えるようになってしまったのだ。

ということで、翻訳された文章が一気に読めないのはこういうことだと思う。今後他の言語を習得したらその分また読めないものが増えていくんだろうと思うと、何とも言えない気分になる。日本語になったものはそれはそれで価値があると思うからだ。作者とほぼ同じくらいの労力をかけて作られた翻訳版をうまく飲み込めないのは、とてももったいないことだ。なんらかの解決策を見いだしたいところだ。