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無駄かもしれない足掻き

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ひとだんらく

ゼミの発表が終わって一段落ついた。明日明後日は特に予定が入ってないので小汚い部屋を片付けて次の発表準備でもする…予定。寝て過ごさないように気をつけたい。

テーマが村上春樹の「アフターダーク」に出てくる「顔の無い男」だったのだが、その関連で触れた「アルファヴィル」がおもしろかったのでこちらでも書いておく。

アルファヴィル 1965 ジャン・リュック=ゴダール(仏)
あらすじなんかはさておき、ここの住民たちが強いられていることが興味深い。
・涙を流すと死刑
・常に鎮静剤を携帯
・「なぜ」と問うことの禁止
なんでも、α60がすべてを論理的に帰結させるから、人間として感情を発露させる必要はないらしいのだ。素晴らしい世界だ。といっても、さすが60年代の映画、舞台は1985年だし、スーパーコンピュータのはずのα60は今見るとものすごく古くさいし(記録媒体が磁気テープだ!)、なんていうか少しも近未来的雰囲気が漂わない奇妙な印象を受けた。モノクロだし。今ふたたび映画化したらそれはそれでおもしろい印象を受けそうだが、あの古びたモノクロだからこその雰囲気だったのかもしれない。
それはさておき、上に書いた3つの制約は、人間らしく生きることへの制約に感じられる。好奇心や感情は先天的なものだし、それに制限を加えてまでして社会を維持させる必要があるのだろうか。作中ではα60が社会を統制するようになった経緯が示されていないだけに、とても興味がかきたてられる。もっとも、磁気テープで動くコンピュータに社会を任せるなんてことは、今からしたら考えられないが。

人間が考えることを外注する、という概念で共通するのが

ハーモニー 2010 伊藤計劃
だ。健康であることを第一にして至上の条件とし、それを阻むものを徹底して除き、人間のリソース意識が行きわたった社会。結末へ向けての「人間の生存条件」に関する考察に衝撃を受けた。そこから「生存」をキーワードにして繋がるのが

すべてがFになる 1998 森博嗣
最近私が最もはまっている作家である。冒頭でコンピュータウイルスについての話題のさいに発せられる
「ところで、生命がある、つまり、生きている、ということは、どう定義されていると思う?」
という問いだ。ここでは生物一般についての話だが、これを人間におきかえると
「人間が生きている、ということは、どう定義されていると思う?」
になる。心臓が動いているとか脳死とか、そういう身体的な状況はまぁ専門ではないので医学関連に明るい人に任せるとして、意識の問題でこれを考えてみる。

「意識がある」とはどういうことだろう?
考えることを徹底的に放棄し、コンピュータ任せにした時、はたして人間は「生きている」と定義できるのだろうか。それとも、ミァハが語る通り、意識は人間にとってもはや不要な、時代遅れのものだろうか。

私個人の主観としては、人間は考えるからこそ人間たりうるのだと信じたい。これも森博嗣からで申し訳ないが(なんせはまっているので影響を受けざるを得ない)、ある人間が亡くなった時になぜかなしいと思うのか、それは「思考がなくなる」という状態に対して惜しいと思うからではないだろうか。2012年になってもα60のように自分でものを考えるコンピュータは生まれていないし、考えることというのはまだ(かろうじてかもしれないが)人間のものである。

ゼミの発表からここまで考えられるようになったから大分思考能力も戻ってきたような気がするけれど、まだまだ浅い部分で終わっている。人間らしくあるためにももっといろいろなことを考えたい。

考えたい、知りたい、という欲求こそが私という人間の本質だ、といつか言い切れるだろうか。